HIV感染症の治療TreatmentStrategiesforHIVInfection栁澤邦雄*はじめにかつて死にいたる病と称されたヒト免疫不全ウイルス(humanimmunode.ciencyvirus:HIV)感染症は,治療の劇的な進歩により日常的な慢性疾患へと変貌している.日常診療も後天性免疫不全症候群(acquiredimmu-node.ciencysyndrome:AIDS)を発症した患者の救命から,「HIVと共に生きる人(peoplelivingwithHIV:PLWH)」の合併症ケアへと変貌した現状について,専門医の立場から概説する.I歴史的な経緯と感染経路長らくAIDSは結核・マラリアと並ぶ世界三大感染症の一つとされてきた.その原因はヒトレトロウイルスの一種であるHIVの感染にある.HIVはおもに宿主リンパ球の一分画であるCD4陽性Tリンパ球(以下,CD4)に感染し,その破壊による宿主免疫の低下に伴うさまざまな合併症(日和見疾患)が生じる.具体例としては,ニューモシスチス肺炎(旧称カリニ肺炎)や食道カンジダ症といった真菌感染症,サイトメガロウイルス(cyto-megalovirus:CMV)網膜炎や進行性多巣性白質脳症などのウイルス感染症,非Hodgkinリンパ腫やKaposi肉腫などの腫瘍性疾患があげられる.HIVに感染した患者がこれら日和見疾患を発症した状態がAIDSであり,その関係性は図1のとおりである.読者の中にはAIDS発症患者の生々しい臨床写真に強烈な印象をもった人も少なくないであろう.当初はこれらが欧米の同性間性的接触を行う男性(menwhohavesexwithmen:MSM)から報告されたこともあり,患者差別や診療忌避の問題をはらんで,エイズ・パニックとも称される世界的な騒動となった.特筆されるべきは,非加熱血液製剤によりHIVに感染した血液疾患の患者がAIDS発症から致死的となった図1HIVとAIDSの関係*KunioYanagisawa:群馬大学医学部附属病院感染制御部〔別刷請求先〕栁澤邦雄:〒371-8511群馬県前橋市昭和町3-39-15群馬大学医学部附属病院感染制御部0910-1810/23/\100/頁/JCOPY(61)1183悲劇,いわゆる「薬害CAIDS」事件である.なかでも先天性の凝固因子欠乏症である血友病の患者は,止血のために凝固因子製剤を補充する必要がある.しかし,非加熱のヒト由来凝固因子製剤にCHIVが混入していたため,わが国でもC1982.1985年にC1,439名の血友病患者がHIV感染の被害を受けた.彼らは厚生省(当時)と製薬会社の責任を問うために訴訟を起こし,1995年に当時の菅直人厚生大臣のもとで,被害者への恒久対策を条件とした和解が成立した.その結果として,1997年には国立国際医療センター(当時)にわが国のCHIV/AIDS診療の司令塔を担うエイズ治療・研究開発センター(AIDSCClinicalCenter:ACC),また各都道府県に最低C1施設のエイズ拠点病院が整備され,診療拒否に遭うことも多かったCHIV/AIDS患者の診療先が(一応)確保された.1990年代のわが国では感染症専門医が非常に希少であったこともあり,エイズ拠点病院で担当医師となったのは,血友病患者を診療してきた血液内科医などである.HIV/AIDS診療は感染経路を問わずに行われるため,血友病患者(薬害被害者)と性的接触による感染者(おもにCMSM)が混在することになるが,各担当医師はそれまでの日和見疾患に対応する経験を生かして,HIV/AIDS患者の診療にあたってきた.要点1:HIV/AIDS診療の歴史には,診療拒否や差別の問題,薬害被害者への対応があったことを忘れてはならない.CII治療薬の開発と発展の歴史HIVの同定からわずかC4年後には,満屋裕明博士によって世界で初めて有効な薬剤が開発された.これが核酸系逆転写酵素阻害薬(nucleosideCreverse-transcrip-taseinhibitors:NRTIs)と称される薬剤の一種,ジドブジン(zidovudine:AZT)である1).当初は単剤治療による速やかな耐性化が問題となったが,続く非核酸系逆転写酵素阻害薬(non-nucleosideRTIs:NNRTIs)やプロテアーゼ阻害薬(proteaseinhibitors:PIs)の開発と,これらをC3剤(一般にキードラッグC1剤+バックボーンC2剤と説明される)組み合わせた「強力でよく効く多剤併用抗レトロウイルス療法(highlyactiveantiret-roviraltherapy:HAART)」がC1996年の国際エイズ学会で報告され,以降C20年余りはこの治療戦略が鉄則となってきた.HAARTは近年CcombinationCantiretroviralCtherapy(cART)とも称されるようになり,HIV感染者に日常生活への復帰を可能としたが,今度は治療の長期化に伴うさまざまな問題が生じることとなった.第一は服薬率(アドヒアランス)の問題であり,これがC95%を切ると次第に耐性ウイルスが選択され,治療が無効となるとされてきた.計算上はC1日C2回,月C60回の服薬機会のうちわずかC3回飲み忘れると耐性化することになるので,患者にとっては日常生活上の大きな負担である.これを長期に維持することでの「飲み疲れ」を回避するべく,cARTの長期継続群と意図的に中断・再開をした群の比較試験が実施されたが,後者での有意な病状悪化2)が報告され,cARTの服薬はアドヒアランスを遵守したうえでの生涯継続が原則となった.第二は開発当初の薬剤で高頻度にみられた嘔気・下痢などの自覚的副作用や,1日あたりの錠剤数の多さに由来する「飲みにくさ」の問題である.やはりこれらも治療中の大きな負担となり,服薬の中断から複数回のAIDS発症に至る患者も散見された.開発当初の治療は上記のように患者に強い負担を強いるものであり,2000年代のある時期までは,CD4数が日和見疾患の発症危険域(200.350/mmC3)に低下するまでCcARTを見送る考え方が主流であった.第三はCcART自体が脂質や糖・骨といった代謝面や腎機能などに与える影響,すなわち薬剤の長期毒性の問題である.これらは(N)NRTIsやCPIsを継続するうえでのジレンマであり,cART薬剤の改良・発展がなされるまで,患者・処方医双方にとって悩みの種であった.しかしその後,無症状であってもCcARTを早期導入することが,性的パートナーへの伝播を阻止する効果3)や,免疫能(CD4数)にかかわらず非CAIDS合併症全体の頻度低下4)をもたらすことが示され,現在ではCCD4数の低下の有無にかかわらず,すべての患者にCcARTを開始することのメリットが強調されるようになった.同時期にCcART自体が後述するように改良・発展したため,大多数の患者で確実なウイルス抑制とCCD4数の安定が得られるようになった.1184あたらしい眼科Vol.40,No.9,2023(62)図2AIDS患者からPLWHへ:治療と臨床像の変化cART薬剤に比べその程度は低くなっており,万が一有害事象が生じれば別のCSTRへの変更を検討すればよい.また,安定期の患者管理は,1日C1回C1錠のCSTRを継続処方することにほかならないので,医事的な問題さえクリアすれば地域の医療機関でも十分対応可能と思われる.もちろん高額な薬価の納入やCCD4・ウイルス量の検査体制などのハードルはあるが,安定期の患者をエイズ拠点病院から市中のクリニックに移行する動きも大都市圏を中心にみられるようになっている.さて,ここまで発展したCHIV治療にも限界はある.C型肝炎が経口抗ウイルス薬によって完治できるようになって久しいが,現時点でCHIVの完治をもたらす手法は確立していない.また,感染を予防できるワクチンの開発は,長年にわたって難渋している.HIV感染に耐性をもつ特殊な形質のドナーから造血幹細胞移植を受けることによってCHIVが「治癒」したとされる事例が2008年の「ベルリン患者」以降数例報告されているが,それが完治なのか長期寛解なのかは,まだ確証が得られているわけではない.なにより造血幹細胞移植自体が,きわめて高度かつ侵襲性の強い,治療関連死亡のありうる治療手段である.造血器悪性腫瘍の根治などの特別な理由がない限り,HIV感染の治療手段として造血幹細胞移植が一般化することは今後も考えにくいと思われる.したがって,現時点でも「完治はしないが,生涯cARTを継続することで,長期抑制状態を維持する」ことがCHIV診療の基本である.要点3:今のところCHIV感染症は完治しないが,1日1回C1錠の錠剤やC1.2カ月にC1回の注射剤も登場するなど,治療は非常に簡便になった.CIV全例治療時代の臨床像の変化上記のとおり,簡便で有効なCcARTが年々発展を遂げたことから,適切な治療にアクセスできた患者はおおむね救命が図れるようになった.現在多くのCPLWHが1日C1回C1錠のCcART(STR)を継続しながら,健常者同様に就業・通学を果たせるようになっており,HIV感染症は典型的な慢性疾患へと変貌をとげている.近年,わが国のCnationaldatabaseの解析5)によれば,cARTを継続しているCPLWHの年齢構成は徐々に高齢化しており(図3),多数の併存症とそのケアに多数の併用薬を要する事例が増加している(図4).すなわちPLWHの臨床像は免疫不全症というよりも,生活習慣病や悪性腫瘍など,非CHIV感染者となんら変わらないものに変貌しているのである.超高齢社会のなかでPLWHも確実に加齢を重ねており,合併症ケアのために実地医家のクリニックに併診で紹介される機会も増えていると思われる.多くのケースがエイズ拠点病院で有効なCcARTが開始されウイルス抑制状態と思われるので,地域で求められるのは非感染者同様の慢性期合併症対応である.具体的には,健康診断から降圧薬・糖尿病薬などの処方といった生活習慣病管理,あるいは介護認定にあたっての主治医意見書の作成といった高齢者福祉の分野まで多岐にわたる.コロナ・パンデミックを経験した今となっては,ワクチン接種や発熱診療などもまずは地域で対応することが期待される.すなわち,PLWHをめぐって,専門病院(エイズ拠点病院)と地域医療機関の連携が欠かせない状況になっているのである.また,近年着目されているのが,PLWHに対するcARTを未感染者に応用した,HIV「予防」としての服用法である.具体的には,ハイリスクな性行為を行う者を中心に事前に抗ウイルス薬を服用する曝露前予防内服(pre-exposureprophylaxis:PrEP)と,医療行為などで万が一の血液曝露が生じたときに,速やかにCcARTを服用することで感染を予防する,曝露後予防内服(post-exposureprophylaxis:PEP)に分けられる.いずれも保険適用は認められていないので自費診療となるが,業務上発生した医療者に対するCPEP費用は労働災害保険の適応となるので,曝露者に確実に伝えていただきたい.また,現在は適切なCcARTにアクセスできたPLWHの大多数がウイルス抑制状態にあり,もはや「ウイルス抑制状態にある患者からは他人に感染しない」との概念(Undetectable=Untransmittable:U=U)も提唱されていて,医療者の血液曝露や患者の免疫不全による混合感染のリスクを必要以上に意識する必要はない.もちろん処置にあたっての懸念があれば,cARTを処方している医師(病院)との間で事前に診療情報を交わし,HIVの治療状況やCcARTと併用薬の相互作用有無など1186あたらしい眼科Vol.40,No.9,2023(64)n=28,089100%90%60-6980%50-5970%60%Age(Year)50%40-4940%30%20%30-3910%20-290%図3PLWHの年齢層の変化(文献C5より引用)併存症併存薬n=28,089100%100%90%90%80%80%70%■.5comorbidities70%■.5co-medications60%■4co-medications■3co-medications■4comorbidities60%50%■3comorbidities50%■2comorbidities■2co-medications40%■1comorbidities40%■1co-medications30%■Noco-medications■Nocomorbidities30%20%20%10%10%2009201020112012201320142015201620172018201920-2930-3940-4950-5960-69.7020-2930-3940-4950-5960-69.70Age(years)Age(years)図4PLWHの併存症と併用薬(文献C5より引用)’’図5曝露後予防(PEP)薬-