岸章治前橋中央眼科ここに『論文論』という本がある.これは清水弘一教授が「臨床眼科」誌(医学書院)に,論文の書き方と学会の発表の仕方をコラムで連載したものを集めて私家版(1992年)にしたものである.表紙は銀色,表題は松葉色で,著者名は凹加工されている.見返しは若草色である.これは清水先生の美的センスによるもので,エッセイ集『べらどんな』も同じスタイルである.序文は,清水先生の恩師である鹿野信一教授が寄せている.曰く「清水弘一教授は御承知の通り,東大の中でも該博の智識と,独英仏は当然として,ラテン語,ギリシア語まで堪能な方であり,医学研究の上でも独特の鋭い観察と考え方で数多くの名論文を発表されている.そのベテランが展開された“論文論”である.よい本となるのは当然だと思う」.清水先生には言語学者,エッセイストとしての側面があった.『論文論』は短い断片からなっており,それぞれに「なぜ論文を」「白い紙面」「ひとり相撲」「お子様ランチ」「赤い糸」「君がため」「悪魔の弁護士」などの魅力的なタイトルがつけられている.これらの話は,門下生ならあの時,教えられた話だと思い当たるであろう.略歴恩師清水弘一先生は,昭和8年2月に満州国奉天省撫順市で出生.昭和22年7月に内地に引き揚げ愛媛県立大洲中学校に編入.昭和26年3月に愛媛県立大洲高等(57)0910-1810/22/\100/頁/JCOPY清水弘一先生(1992年)学校を卒業し,4月に東京大学教養学部理科二類に入学.昭和28年4月東京大学医学部医学科に進学し,昭和32年3月に卒業.東京大学医学部附属病院で1年間インターンをされ,入局直前の昭和33年4月に奥さま(岡田玄子さま)と結婚.奥さまは高校の同級生とお聞きした.お茶の水女子大出で才色兼備の方だった.奥さまは清水先生が亡くなるまで,先生の最大の理解者で応援者であった.昭和33年7月に東京大学眼科に入局,同時に文部教官助手となった.入局後は萩原朗教授・鹿野信一助教授に師事.昭和35年に文部省留学生としてドイツ国ボン大学に留学(1年間).昭和39年7月東京大あたらしい眼科Vol.39,No.12,20221625図1『論文論』表紙(1992年)学眼科講師,昭和46年9月東京大学眼科助教授.そして昭和47(1972)年4月,39歳で群馬大学眼科教授として赴任.平成10(1998)年3月に定年退官された.群馬大学での在任期間は26年に及んだ.1998年のMacu-laSocietyで日本人としては初のArnallPatzMedalが授与された.受賞者はGoldberg,Green,Hayrehと続き,数年後に,Yannuzzi,Coscasが受賞している.定年後は帝京大学や埼玉医科大学で客員教授をされていた.昨年(2021年12月),ご家族に見守られて88歳で逝去された.学会活動清水先生の国内におけるおもな特別講演は,日本眼科学会宿題報告として,昭和45年に「蛍光眼底造影をめぐる諸問題」,昭和52年に「光凝固をめぐる諸問題」をされている.日本に最初にアルゴンレーザーが輸入されたのは昭和48年で,群馬大学と広島大学に設置された.昭和50年代では,汎網膜光凝固(panretinalphoto-coagulation:PRP)により増殖糖尿病網膜症が鎮静化し,新生血管が退縮することは新知見だった.学会ではPRPを暴挙と考える意見も出ていた.日本眼科学会特別講演としては,平成元年に「糖尿病網膜症」を,日本臨床眼科学会特別講演は,平成5年に「赤外蛍光造影」をされている.清水先生のおもな研究テーマは,東京大学時代の前半は前房隅角だったが,その後,蛍光眼底造影に移った.蛍光眼底造影は黎明期であり,先生は自分でフルオレセインを被検者に注射し,自分で撮影をしていたという.群馬大学に来てからも蛍光眼底造影がおもな研究手段であり,そこから糖尿病性網膜症の病態,光凝固による治療,家族性滲出性硝子体網膜症や高安病の網膜血管病態,血管鋳型による三次元的な眼血管構築などに広がった.蛍光眼底造影は私が入局当初(1976年)はトプコンの画角30°のカメラを使っていたが,2,3年後にキャノンが60Zという画角が60°で解像力のよいカメラを開発した.このカメラを使って後極だけでなく,周辺の造影写真もとれるようになった.撮影は最初に後極部,次に中間周辺部,さらに最周辺部がとられ,各部の造影写真を貼り合わせてパノラマ蛍光眼底写真が作成された.これにより,糖尿病網膜症は後極だけを見ていたのではだめで,中間周辺部に無灌流領域(nonperfusionarea:NPA)が初発すること,NPAの境界に新生血管が生じること,NPAが拡大すると,乳頭新生血管が生じること,さらに拡大すると血管新生緑内障になることが示された.それを集大成したのが,1981年のOphthalmolo-gy誌に出た“Midperipheralfundusinvolvementindiabeticretinopathy”である.これは糖尿病網膜症を語るうえで金字塔というべき業績であった.外国の学会では,画面一杯にパノラマ蛍光眼底が映し出されると聴衆が唸り,講演が終わると大拍手が起こった.清水先生は得意満面であった.このパノラマは村岡兼光先生のグループの労力のもとに作成された.外国人が見学に来たが,laborintensive(手間がかかりすぎる)なので,自分たちには無理だと言っていた.この技術は群馬大学のお家芸となり,インドシアニングリーン蛍光造影にも応用された.ここでは高橋京一先生らによって,脈絡膜血管の可塑性に関する新知見が次々に発表された.最近,群馬大学から出ているパキコロイド病における渦静脈のリモデリングのアイデアは,この知見に立脚したものである.清水先生はたくさんの単行本(モノグラム)を出版した.これらの本は編集代表としてではなく,自ら執筆したものである.最初の本は昭和40年の『前房隅角図譜』(鹿野信一先生と共著)である.当時,先生は32歳である.昭和42年に「蛍光眼底造影」を英文で出版(34歳!),昭和48年には「蛍光眼底微小血管造影」をやはり英文で出版している.このころ,清水先生は東京で図2『べらどんな』表紙(1981年)国際蛍光眼底造影の学会を主催されている.先生は若いときから世界のリーダーと目されていた.外国人は音に聞くShimizuが現れたらあまりに若いのでびっくりしたそうである.清水先生は,海外の学会には「戦いに行くような覚悟で臨む」と語ってくれたことがある.「日本はアメリカの植民地ではない」とも言った.背筋をピンと伸ばし,堂々と世界のリーダーたちと渡り合う姿はサムライのようであった.ドイツの学会では日本人のShimizuが完璧なドイツ語を話すので,米国人が驚いたそうである.先生は欧米の網膜の教授たちに多くの友人がいたが,なかでも“TheRetinalCirculation”を著したPaulHenkind(1932~1986年)は,ほぼ同い年であり,お互いに尊敬しあう親友であった.1978年に京都で国際眼科学会が行われたとき,清水先生は倉敷でRetinaWorkshopを主催した.海外から50人ほどの著明な研究者が参加した.清水先生は「手紙で一本釣りしたら,Shimizuのためならと,皆さん手弁当で来てくれたんだ」と言っていた.フィレンツェのBlancato教授の弟子のフランチェスコの話では,清水先生がベニスに来たとき,食事会でダンテの『神曲』をそらんじたそうである.単行本は,昭和52年には『光凝固』(野寄喜美春先生との共著),昭和53年に“StructureofOcularVessel”(氏家和宣先生との共著),昭和57年に『レー図3『べらどんなの妹』の見返し(1984年)「眼科にもささやかなロマンが」と書き入れて贈呈してくださった.ザー光凝固』(野寄喜美春先生との共著),昭和59年に『糖尿病網膜症』(野寄喜美春先生との共著),昭和61年に『眼底出血』(野寄喜美春先生・猪俣孟先生との共著),昭和62年に『レーザー眼治療』(野寄喜美春先生との共著),平成4年に『レーザー眼治療(英文)』(野寄喜美春先生との共著)が刊行された.清水先生は臨床研究の大切さをいつも強調していた.「MDがPhDのまねをしてどうする」というのが口癖だった.ClinicalScienceを究めた人が海外でも尊敬されるのだと言っていたが本当だった.私が師事した眼病理学のMarkTso教授も病理所見の解釈にはMDのセンスを生かせといつも言っていた.病気を直接見ることができるのはMDの特権である.「病気は神様が作った実験だと思え」と清水先生はよく言っていた.抗VEGF薬が出てから,治験が大はやりである.清水先生は製薬会社から持ち込まれる治験の依頼はすべて断っていた.見返りの研究費が欲しいのは山々であるが,どうしても嘘をつくことになるし,それに使う時間も惜しいということだった.「ダメなことに時間を使うと大事なことをする時間がなくなる」とよくおっしゃっていた.図4PaulHenkindが描いた清水先生の似顔絵(1976年)臨床講義清水先生の臨床講義は学生に強烈な印象を与えた.私もそうだが,先生の講義を聴いて眼科を選んだひとは多いのではないか.講義は金曜日の午後1時から2時半までである.1時を3分ほど過ぎると先生が颯爽と臨床講堂に入ってくる.皆が注目しているなかで,先生は黙って黒板に前の机の上に,チョークを白・赤・黄・緑・青とキチンと並べる.その後,学生に対峙するのだが,いきなり講義の主題には入らない.外国の学会に行った話,医学部の予算配分,病院建築がどのように進んでいるかなどの話をした.いわゆる「枕を振る」のである.聞き手がその気分になったところで本題に入る.主題はいつも一つである.白斑とか出血,そして回数が進んでくると脈なし病や網膜.離が話題になってくる.階段教室なので前が広くあいている.先生は竹の竿をぶらぶらさせ歩きながら話をした.大事なところでは,竿を立てて大きな目でこちらを睨むのであった.今思うと歌舞伎役者が見得を切るのに似ていた.「未熟児網膜症は無血管野の虚血が原因である.治療は目玉焼き」といって鋭い眼光のまま口元をニッとするのであった.講義はいつも面白くわかりやすかった.予備知識なしでちゃんと理解できるのであった.最終回の話題は「医原病」であっ図5外来暗室で(1989年頃)た.ステロイド緑内障,スモン,クロロキン網膜症などを解説したあとで強調されるのが,「加害者である医師はすべて善意の人だった」という話である.そして,「医師は善人であるだけでは十分でなく,賢くなければならない」「だから諸君は将来医者になってもしっかり勉強しなさい」と強調して講義が終わった.医局員の教育昭和51(1976)年5月,私が連休明けに初出勤した日,清水先生は“Adler’sPhysiologyoftheEye”を人数分用意して待っていた.新人を前にして,先生は「泳ぎができない人を泳がせる方法はプールに放り投げることである」と言い,そのまま我々を外来に連れて行き,いきなり新患をもたせたのであった.カルテに描く眼底のスケッチは,最初のころは直像鏡しか使えなかったので乳頭とその周辺だけであったが,夏が終わる頃には倒像鏡で眼底全体が描けるようになった.新人は出勤第1日目から古参の医局員と一対一で組んで仕事をする,この兄弟子と弟弟子の関係を,オーベン,ネーベンという.オーベンはカルテの記載の仕方,ムンテラのコツ,手術の手ほどきなど眼科の現場に関係するすべてを教える.それと並行して,新人相手にクルズスが20回ほど行われた.クルズスでは,視力測定,検影法,ボンノスコープの使い方,直像鏡,倒像鏡,スパルトの見方,Goldmann視野計,眼圧測定法(シェッツとアプラネーション),蛍光造影法,網膜電図などのレクチャーがあった.もっとも詳しかったのは,蛍光造影写真の現像と紙焼きであった.Adlerの輪読会は最初のうちは清水先生がつき合ってくれたが,あとは自分たちでということ図6筆者(岸)の教授選出後の祝杯(1996年3月,眼科研究室)だった.当時は日本語のよい本がなかったし,日本語をいう意味からは非能率であるが,若い医者にとっては毎読むのは安直だという風潮があった.丸善が定期的に本回添削を受けることができるし,紹介医は上医診を期待を持ってきた.洋書は2,3万した(当時は1ドル=360しているのでそれに応えることができる.暗室には10円).今の感覚では6万円の本を買うようなものである.個ほどのカーテンで仕切った診察ブースが並んでいる.先生は「本は高いと思うな.高いと思うなら,そのお金暗室全体を見渡せる角に広めのブースがあり,そこで教をあげるから本を書いてみろ」とよく言っていた.授診が行われた.暗室の奥には眼底カメラ,光凝固装置Tolentino,Schepensの“Vitreoretinaldisorders”,などが並んでいた.蛍光眼底造影は年間2,000件行われYano.の『眼病理』,Hoganの『電顕組織学』を読んだた.大部屋なので会話は筒抜けである.医局員は先輩やことは,その後大いに役立った.群馬大学では眼科全般後輩のムンテラを聞きながら,互いに学んでいくのであに対応できる医師の育成をめざしていたので,医局員をる.先生は声が大きいので週2回の教授診の間,すべて専門別に分けることはしなかった.先生は信長のようなの会話が否応なしに入ってきた.先生は貴重な経験を皆ところがあり,いつも「下剋上」と言っていた.学問ので共有しよう考えていた.あるとき1診のベルがチリン世界で弟子は師の縮小再生産であってはならず,それをと鳴った.全員集合の合図である.このとき小口病の金超えなければならないということであった.先生からは箔眼底を初めて見せてもらった.清水先生は個室診療の疾患の考え方,論文の書き方,発表の形式に至るまで指弊害をよく語っていた.私もある大学の外来を見学した導された.「三毛猫は三毛猫でもみな違う,簡単に文献ことがあるが,完全な個室であった.静かな空間で,患を信じるな,権威者はほどほどに,病気から学べ」とい者のプライバシーは保たれるであろうが,どんな診察がうのが口癖だった.行われているかチェックの仕様がないし,他からも学べないであろう.清水先生は,貴重な症例を個人が温めて診療スタイル人に見せないのを「院内開業」とよび,ほとんど憎んでいた.先生の眼底スケッチは,それをまとめて本にした群馬大学眼科の外来の特徴は,上医診と大部屋スタイいほど秀逸であった.先生は絵心があり,色鉛筆を何色ルであり,いまでもその伝統が踏襲されている.若い医も使い,スケッチ自体が美しく,洗練されていた.何よ者は自分勝手に患者を帰すことはできない.所見をとりもスケッチに解釈が示されていた.たとえば,網膜.り,1,2診(教授+講師または助教授+講師)に出し,離では裂孔からどのように.離が進展したか,硝子体がコメントと指示を仰ぐことになる.これは患者の回転とどう関与しているか,裂孔からの色素細胞がどう散布さ図7筆者(岸)の日本眼科学会特別講演に来られた清水先生ご夫妻(2014年)れ,網膜表面に膜ができたかが詳細に描かれていた.1970年代は硝子体手術も眼内レンズもない時代である.私の入局の3年前(1973)にアルゴンレーザーが導入されていたが,西独Zeissのキセノン光凝固も現役だった.先生は「アルゴンは眼底に焦げ目をつける器械,キセノンは病気を治す器械」といっていた.キセノンは未熟児網膜症や網膜.離,ときに糖尿病網膜症にも使われていた.この装置は「象」とよばれており,箪笥くらいの大きな本体から太い筒が出ていた.網膜.離はもっぱらバックリング手術で清水先生が全例執刀していた.先生の手術日には,我々は病棟から手術場まで「象」を引きずっていった.教養の大切さ清水先生は,「ひとは表芸(仕事)だけではだめで,裏芸(教養)の深さが人間の価値を決めるのだ」といつも語っていた.先生はそれを「べらどんな」やワインのコラムで自ら示した.私が新人のころ,医局にはワイン屋が時々来て,試飲会を行っていた.当時はドイツワインが主流だった.タバコをふかしながら,『べらどんな』を書いているときの先生は本当に楽しそうだった『べらどんな』は昭和52(1977)年に「臨床眼科」誌(金原出版)のコラムとして始まった.最初のコラムは「シャーロック・ホームズと眼科学」である.このシリーズは平成9(1997)年,先生の定年退官の前年に第6巻でいったん完結した.その後もコラムの連載が続き,亡くなる1年ほど前(2020)まで続いた.今回,『べらどんな』シリーズを改めて読んで,洒脱な文章にちりばめられた先生の才能と教養の深さに驚かされた.新人のころ,先生から「クリムト展が三越に来ているから見に行くとよい」といわれた.清水先生は高校時代にドイツ語の先生がいたので,学生向けのゲーテの『ファウスト』をドイツ語で読み,大学に進学してからは,レクラムの文庫本を手に入れて,好きな箇所を何度も読み返したという.トーマス・マンも長編『ファウスト博士』を書いた.教養学部のドイツ語の先生がこれの翻訳をしていたので,その勧めで,800ページある原著を3カ月かけて通読し,いまでも愛読書のひとつであるという.あるとき,『ジャン・クリストフ』のフランス語版を示して学生時代に読んだといわれたときはびっくりした.私は和訳でさえ途中で投げ出してしまったのだから.『論文論』の「赤い糸」では,ワーグナーのライトモチーフが紹介されている.先達に学ぶ「少年よ,大志を抱け」というが,私はまったくそんなことはなかった.平凡に生きたいと思っていたのである.清水先生は私に強烈なimprintingを与えた.元々,開業しようとも出世しようとも思っていなかったので,ずっと大学に在籍した.清水先生はいつも私を支援してくれ,留学もさせてくれた.大学にいれば,日本眼科学会,日本臨床眼科学会に演題を出さなければならない.そして「今場所が終われば,来場所をめざして稽古に励む」生活が清水先生の下で22年間続いたのであった.それだけで完結する論文は存在せず,論文をひとつ仕上げれば,次になにをすべきかが自然に提起されるのである.先生は世界のShimizuであった.海外の権威を有り難がったりはしなかった.弟子は知らず知らずに影響を受けたのである.最後に心に残った先生の名言を紹介する.「世の中,金で解決できることは所詮たいしたことではない」.