【略歴】1927年10月30日新潟県三条市に生まれる1952年3月前橋医科大学を卒業1953年5月新潟大学医学部眼科に入局1961年8月AlexandervonHumboldt奨学生としてBonn大学に留学1964年6月新潟大学医学部眼科助教授1972年6月新潟大学医学部眼科教授1993年3月新潟大学を定年退官,名誉教授2018年12月7日逝去【ライフワーク】緑内障病態の解明に関する研究,診断,治療に関する研究【趣味】随筆,クラッシック音楽,山登り,シャクナゲ,マイクロ手術【主な学会講演】1973年5月,第77回日本眼科学会総会,宿題報告「公害と眼:新潟水俣病と眼」1)1978年,The11th.RochesterInternationalConferenceonEnvironmentalToxicity,招待講演“Neurotoxicityofthevisualsystem”1984年9月,第38回日本臨床眼科学会総会,特別講演2)「原発開放隅角緑内障の初期病態」1992年5月,第96回日本眼科学会総会・特別講演「低眼圧緑内障および原発開放隅角緑内障の病態と視神経障害機構」3)(図1)1992年10月,第3回日本緑内障学会,須田記念講演「低眼圧緑内障の病理」4)1999年10月,第2回アジア・オセアニア緑内障学会・特別講演「緑内障における視神経障害機構」2018年9月,第29回日本緑内障学会,LegendaryLecture「正常眼圧緑内障─裸身への誘い」(図2)【学会の名誉会員】日本眼科学会,日本緑内障学会,日本眼光学学会,日本眼感染症学会,日本神経眼科学会,(71)0910-1810/19/\100/頁/JCOPY岩田和雄先生【受賞歴】1985年新潟日報文化賞1992年緑内障須田記念メダル1993年環境保全功労賞(環境庁長官)1998年日本眼科学会賞2003年日本眼科学会特別貢献賞2004年日本神経眼科学会石川メダル2007年日本眼科学会評議員会賞【叙勲】2010年瑞宝中綬章(図3)【その他】1968年,日本最初の緑内障教科書『緑内障』を出版(金原出版)(図4)1975年3月,米国雑誌“Glaucoma”編集委員1975年10月,InternationalGlaucomaCommitteeメンバー図1日本眼科学会賞のメダルと賞状第96回日本眼科学会総会・特別講演「低眼圧緑内障および原発開放隅角緑内障の病態と視神経障害機構」の際に贈られたもの(1998年5月).図2第29回日本緑内障学会LegendaryLectureでの岩田先生「正常眼圧緑内障─裸身への誘い」が,先生の生涯最後のご講演となった(2018年9月15日).岩田和雄先生の業績と教え,緑内障学への貢献福地健郎(新潟大学大学院医歯学総合研究科眼科学分野)私の恩師である岩田和雄先生は昨年(2018年)12月7日に満91歳でお亡くなりになられた.同年9月に新潟で行われた第29回日本緑内障学会に元気なお姿で出席され,LegendaryLectureではまさに日本の緑内障の歴史に残る名講演をされた(図2)わずか3カ月後のことであった.今回,木下茂京都府立医科大学教授から,「眼科の図3瑞宝中綬章受章(2010年)図4三国政吉教授と共著で出版されたわが国初の緑内障教科書(1968年)先達に学ぶ」の第3回として岩田和雄先生について取り上げたいので,ぜひ原稿を書いてほしいとのご依頼をいただいた.大変に光栄なことではあるが,正直,私では役不足は否めない.岩田先生の教授としての在任期間21年のうち,私が直接にご指導いただくことのできたのはわずか7年間でしかない.とはいえ,1992年の第96回日本眼科学会総会における特別講演は岩田先生と新潟大学眼科の歴史における一つの頂点であり,阿部春樹先生(現新潟大学名誉教授),澤口昭一先生(故人,前琉球大学教授)などの大先輩とともに,その頂点に向かうメンバーの一員に加えていただくことができたのは,私の幸運であり,まさしく原点であったと思う.今回は岩田先生の業績を大局的に振り返るのではなく,私の眼科医,緑内障専門医の原点という視点から,岩田先生の緑内障学と,その功績について述べてみたいと思う.■当時の日本の眼科と緑内障■私は1985年5月に新潟大学眼科に入局した.当時,日本国内ではようやく眼内レンズが標準治療としてひろまりつつあった時代.緑内障はまだGoldmann視野計が主体で静的視野計への移行が秒読みに入った頃,点眼薬はbブロッカーが標準になったばかりであり,レクトミーは5-FUやマイトマイシンC(MMC)といった代謝拮抗薬を用いる以前であった.すでに30数年が経過した今,当時を振り返えると,岩田先生は緑内障の変革期を迎えようとしていた時代にさまざまな最先端を試行錯誤されていた.自己の経験に基づいた,時代を先取りした主張は,当時はなかなか受け入れられなかったが,今となってはその多くが緑内障のごく一般的な常識になっている.岩田先生は,常々「私は時代に投げる,後に続く君たちが考えてくれれば良い」といっておられた.日本の緑内障を牽引したパイオニアのひとりとしての気概だったと思う.1.機械説と血管説岩田先生といえば「機械説」,というのが皆様の共通の認識だと思う.私が眼科に入局した1985年当時,先輩である澤口先生は新潟大学脳研究所で眼圧上昇と軸索輸送障害の研究をされておられた.同年の秋には第39回日本臨床眼科学会が新潟市で行われ,Radius教授(米国,Wisconsin医科大学)が軸索輸送障害と機械説のご講演を,一方でHayreh教授(米国,Iowa大学)が脈絡膜循環と血管説のご講演をされた.実は岩田先生も緑内障の視神経乳頭をフルオレスセイン血管造影(FA)で長年にわたって乳頭の血流について研究されておられ,それ以前には自身も「血管説」であったと振り返っておられる.ご自身がみてきた緑内障性視神経症とそのFA所見,その経過はどうしても矛盾すると,自説の展開に悩まれていたそうである.そんな頃,眼圧上昇による篩状板の変形と軸索輸送障害,つまり「機械説」を知り,「ぴったりはまった」とその後におっしゃっておられた.以来,生涯にわたって機械説の立場から緑内障と緑内障研究を見続けて来られたのは皆様もご存知の通りである.2.目標眼圧の概念緑内障は病期の進行に伴って治療目標とするべき眼圧は下がっていく.第96回日本眼科学会総会における特別講演「低眼圧緑内障および原発開放隅角緑内障の病態と視神経障害機構」の日本の緑内障に残した功績は大きい3).それまでの緑内障治療は正常眼圧域への眼圧コントロールが一般的であった.しかし,病期が進行した場合にはそれでは不十分であり,さらに低い眼圧,原発開放隅角緑内障(primaryopenangleglaucoma:POAG)では最終的にlowteens以下に低下させる必要性について説いた.実はすでに当時の多くの先生方が臨床の場で漠然と同様な意見をもっていたようで,これが「目標眼圧」という概念として明示されたことのインパクトは大きかった.ベースとなった長期経過に関するスタディは,POAGが主体のおもにGoldmann視野計による視野進行判定で,現在の自動視野計を用いた進行速度評価のそれとはやや異なる.その後に,目標眼圧とその概念,緑内障臨床における意義について数多くの研究と議論が行われることになり,結果として日本の緑内障の発展に大きく寄与したことは間違いがない.3.緑内障の視神経乳頭を見る,記録するa.視神経乳頭観察へのこだわり現在は緑内障診療に光干渉断層計(opticalcoherencetomography:OCT)がごく一般的に用いられている.当時の臨床の場における緑内障の眼底評価の唯一の方法は視神経乳頭の撮影と観察であった.岩田先生は眼底所見,とくに乳頭陥凹と神経線維層欠損(nerve.berlayerdefect:NFLD),さらに視野との関連について,図5岩田先生の海外のたくさんの先生方との交流a:ドイツ留学中の恩師,ErichWeigelin教授(ドイツ・Bonn大学,1978年)b:緑内障のNFLDを報告したWilliamFHoyt教授(米国・California大学,1979年)c:緑内障の乳頭出血で有名なStephenMDrance教授(カナダ・BritishColombia大学,1985年)d:緑内障画像解析の第一人者,BernardSchwartz教授(米国・Tafts大学,1989年)e:眼病理学のMarkTso教授(米国・Illinois大学,1989年)f:人工網膜で有名なEberhartZrenner教授(ドイツ・Tuebingen大学,2015年)国内でも先行して研究されていた第一人者であった5,6).とくに鮮明な立体写真による乳頭撮影を推奨され,岩田先生は自ら撮影した写真だけでなく,私たちが撮影したすべての乳頭写真をチェックされていた.とにかく視神経乳頭を見ることで,道具のなかった時代に,人は自分の能力を養う.岩田先生を含む当時の先輩方の乳頭観察の技術,能力に敬服するとともに,私自身が遠く及ばないことをまさに実感する.b.緑内障の眼底画像解析装置開発,黎明期乳頭所見の記録と量的解析のための画像解析装置の開発は,当時の緑内障研究を先取りするテーマの一つであった.私が入局した当時,岩田先生はStereochronosco-pyを開発し,難波克彦講師とともに乳頭陥凹の形態変化による緑内障の進行検出についての解析をされていた7).新潟での第39回日本臨床眼科学会でご講演されたSchwarz教授(米国・Tafts大学,図5e)はこの分野の世界的な第一人者で,岩田先生もご一緒され議論されておられた.図6aは国内のメーカーとともに立体写真を元に乳頭陥凹の形状や体積を量的に評価する方法で,岩田先生が開発にかかわった画像解析の先駆けとなった装置の一つである.4.正常眼圧緑内障(normaltensionglaucoma:NTG)a.低眼圧緑内障(lowtensionglaucoma:LTG)はまれではない現在のNTGはかつてLTGとよばれていた.当時,眼圧が高いのが緑内障であり,LTGはまれというのが一般の認識であった.正常眼圧の症例も引水試験などの負荷試験,夜間眼圧など日内変動を調べると高眼圧を生じていることがあるといわれていた.つまり緑内障の診療と研究はPOAGが中心であった.岩田先生は(さすがに多治見スタディのNTGが緑内障全体の70%とまでは考えておられなかったようだが),「LTGはまれではない,眼圧が正常範囲でも視神経乳頭陥凹拡大と神経線維欠損を見落とさないように」といっておられた.b.NTGでも眼圧下降,そして手術当科にはNTG眼の病理標本がある.岩田先生はその症例についてしばしばご講演のなかで提示されていたが,その電子顕微鏡写真は私が基礎研究の駆け出しの頃,澤口先生にご指導いただき撮影したものである(図6b).わずかに1例ではあるのだが,このNTG眼の視神経乳頭を組織学的に見るかぎり,その所見は高眼圧眼トラベクレクトミーを行った左眼:7.9±0.73(7-10)mmHgMDスロープ-0.26dB/年p=0.012図6岩田先生はまさに日本の緑内障のオピニオンリーダーであったa:視神経乳頭立体写真を用いて乳頭陥凹の形態,容積を計測する装置の解析画面,緑内障画像解析装置の先駆け.b:NTGの病理所見は高眼圧緑内障の所見とほぼ同一であることを主張されていた.c:NTGでトラベクレクトミーが行われた症例の約10年の視野の経過,手術をした左眼は,点眼治療で経過観察された右眼に対してはるかに進行は緩やかで,NTGでも積極的な眼圧下降治療が必要で有効なこと,最終的には手術治療が必要であることを1992年当時にすでに主張されていた.d:新潟大学では5-FU,MMCレクトミー以前に,ACSEBとよばれるチューブシャント手術が行われていた.のそれとほぼ共通であった.岩田先生はこの症例の所見も含めて,NTGもその基本は眼圧であり,眼圧下降を徹底することがNTGの治療の基本であると強調されていた.実際に教授退任前の数年間はNTG症例に対して積極的にMMCを導入したレクトミーを行っておられた.図6cは当時,岩田先生がレクトミーを行われた症例の両眼の経過である.実際にレクトミーを行われ眼圧7~8mmHgで経過した左眼の進行は緩やかで,元々は視野は良好であった右眼は点眼薬で治療され,わずか数年後には術眼を追い抜いている.c.NTG診断に頭蓋内疾患の除外は不要NTGは「視神経乳頭所見で診断する緑内障である」というのが現職当時からの岩田先生の確固たる主張であった.かつて,NTGの確定診断に「頭蓋内疾患の除外」が明記されていた.臨床研究にエントリーするすべてのNTG患者にCT検査がされていた施設もあったと聞いている.その一方で,新潟大学では,相当する疾患の合併が疑われる例,不規則な視野欠損の例などを除いて,ほとんどの緑内障患者に頭蓋内検査は行われることはなかった.その後に作成され,現在第4版を重ねている「緑内障診療ガイドライン」には「頭蓋内疾患の除外」は記載されていない.既成概念にとらわれずに,自分の臨床スタイルを主張できる先生であった.5.緑内障手術a.トラベクロトミーとトラベクレクトミー1985年当時の緑内障手術,トラベクレクトミーはまだ5-FUやMMCを併用する前で,強膜弁の角は緩く縫合し,術後には前房が消失し,一週程度経過するのが当たり前の時代であった.そのころ岩田先生はPOAGの多くの症例にトラベクロトミーを行われていた.その後,日本国内では緑内障(おもにPOAG)に対してロトミーか,レクトミーかという議論があった.天理よろず病院の永田誠先生はトラベクロトミーを推奨され「ロトミー派」,岩田先生は「レクトミー派」とされていた.岩田先生自身はロトミーを術式として否定していた訳ではなく,自身の手術成績から眼圧下降効果が「足りない」といっておられた.つまり自身はすでに目標眼圧の概念に基づいており,緑内障手術はlowteens以下を目指すべきである,だからレクトミーであった.図7教授時代に主催された雪明緑内障シンポジウムa:開講10周年記念の第1回雪明緑内障シンポジウム(1983年),湖崎弘先生,東郁郎教授(大阪医科大学),澤田淳教授(宮崎医科大学),阿部春樹先生,黒澤明充先生とともに.b:退官記念の第4回雪明緑内障シンポジウム(1993年)のプログラム.図8岩田和雄先生ご夫妻(2017年)b.チューブシャント手術(anteriorchambertubeshunttotheencirclingband:ACTSEB)1985年当時に新潟大学では日本国内で先行してチューブシャント手術が行われていた.ACTSEB(図6d)とよばれる術式である.網膜硝子体術者がencir-clingを巻き,その後に緑内障術者が前房内にチューブを挿入する術式であった.導入のきっかけは5-FUやMMC使用以前の当時のレクトミー成績は不良で,手術を繰り返さなければいけない症例がしばしばだったことである.これについては私がpreliminarydataをまとめて新潟眼科集談会で発表,その後に先輩の関伶子先生が臨床眼科学会で発表し,さらに論文化された8).ACTSEBはある程度の効果を認めた一方で,手術手技は煩雑で,encircling周囲の瘢痕化による眼圧上昇や角膜内皮障害の合併症も経験した.結果的に5-FU,その図9研究室での岩田和雄先生(左),第29回日本緑内障学会招宴でのサプライズプレゼント(右)後はMMCによってレクトミーの成績が改善し,主体はレクトミーに移行した.岩田先生自身が緑内障の新しい術式を積極的に取り入れ,自ら経験し,結果を検討,時代に即して術式が次々と変わっていったことは貴重な経験であった.c.非穿孔性トラベクレクトミー(non.penetratingtrabeculectomy:NPT)岩田先生は日本国内でNPTを再興したといわれているが,これは1993年に新潟大学眼科教授を退任されて後のことである.岩田先生が残された自己のプロフィールのなかで趣味・特技の欄に,随筆,クラッシック音楽,山登り,シャクナゲとともに「マイクロ手術」と記されている.日本国内でレクトミーにMMCが標準的に使用されるようになり,低眼圧の遷延等々の合併症が頻発するようになった.レクトミーは基本的には古い手術で,効果増強と副作用対策の繰り返しの上に現在の術式が成り立っている.NPTは術後の過剰濾過,浅前房に伴う合併症軽減をめざした術式である.NPTについて新潟大学も経験したが,手術そのもので眼圧下降効果と副作用のすべてのバランスをとらなければ行けない術式であり,その成績は術者の技術(と勘?)に大きく依存する.そういう意味でNPTは標準的な手術にはなりにくい側面があり,岩田先生のNPTはまさに職人芸であったと思う.追悼第29回日本緑内障学会のLegendaryLectureでご講演された内容は,文献9として残されています.ご講演の最後の「これからも生涯,緑内障研究を続けていく所存」は,私たちへの惜別の言葉であるとともに,緑内障と緑内障研究に携わるすべての人たちへの励ましであり,遺言だった思います.岩田和雄先生の御逝去を悼み,心よりご冥福をお祈りいたします.文献1)岩田和雄:公害と眼,新潟水俣病と眼.日眼会誌2)岩田和雄:原発開放隅角緑内障の初期病態.臨眼39:407-424,19853)岩田和雄:低眼圧緑内障および原発開放隅角緑内障の病態と視神経障害機構.日眼会誌96:1501-1531,19924)岩田和雄:原発開放隅角緑内障および低眼圧緑内障のNeu-ropathy.あたらしい眼科10:1139-1146,19935)岩田和雄,八百枝浩,祖父江邦子:緑内障性乳頭変化と視野.その1cuppingの定量:C/D比,面積比,容積について.日眼会誌78:148-157,19746)岩田和雄,八百枝浩,祖父江邦子:緑内障における網膜神経線維層の変化.その1生体眼底における神経線維描出法.日眼会誌79:1062-1066,19757)岩田和雄,八百枝浩,武田啓治:NewStereochronoscopy.日眼会誌87:768-776,19838)関伶子,福地健郎,安藤伸朗ほか:Anteriorchambertubeshunttoanencirclingbandによる難治性緑内障の治療成績.臨眼41:297-301,19879)岩田和雄:正常眼圧緑内障─Legendから真実へ─.日本の眼科89:1541-1544,2018恩師故岩田和雄名誉教授の教えと思い出阿部春樹(新潟大学名誉教授,新潟医療福祉大学教授)新潟大学名誉教授で日本緑内障学会名誉会員の岩田和雄先生が,2018年12月7日に91歳でご逝去されました.謹んで哀悼の意を表しますとともに,心よりご冥福をお祈りいたします.岩田先生は,日本を代表する緑内障研究の第一人者で,緑内障の研究と診療一筋に歩んでこられました.とくに緑内障の病態解明を目標に精力的に研究され,その治療の発展に大きく貢献されました.先生の数々の業績は,きわめてオリジナリティと独創性に富んだもので,私どもにとって刺激を受け啓発されるところがきわめて大きいものでした.たとえば,わが国初の緑内障のテキストブックの刊行や,岩田式圧迫隅角鏡の開発,さらに先生の永年の研究の集大成ともいえる日本眼科学会総会での特別講演の原著は,米国での大規模臨床試験に先立って,緑内障治療の根幹である眼圧下降と緑内障の予後に光を当てた先駆的論文として,現在も広く引用されております.この論文は先生の永年にわたる緑内障研究の集大成ともいうべきものです.この論文によって,先生が指摘された緑内障治療における眼圧下降の重要性が,その後の米国での数々の大規模臨床試験で証明されたといっても過言ではないと思います.さらに先生は,世界各国より選ばれたトップクラスの緑内障研究者から構成される「InternationalGlaucomaCommittee」のメンバーとして国際的にも活躍されていらっしゃいました.私事ですが,岩田先生のご推薦により,私も本会の総会で研究発表をする機会を与えていただきまして,審査の結果合格してメンバーに加えていただきました.岩田先生は,新潟大学眼科の第四代教授ですが,先生の教授時代に一番私の印象に残っていることとしては,何といっても学問と研究に対する姿勢の厳しさです.ご自身の研究や実験は自らの手でなされ,少しでも納得のいかないことがあれば,繰り返しやり直しておられました.そして共同研究者の報告についても,問題があればご自身で実際にやってみて,解決の糸口を見つけるといった具合でした.さらに先生は,「模倣でない自己の創造による国際的レベルの学問と研究の大切さ」を,機会あるたびに熱っぽく我々教室員に語りかけ,自らもそれを実行してこられました.私が尊敬の念を強くしたのは,大学を退官されて名誉教授になられた後も,その真摯な姿勢は変わりなく,先端的基礎研究から臨床検査機器に至るまですべてに関心を寄せ,理解されているお姿でした.さらに先生は,体調をくずされて入院される直前まで,緑内障の病態の根幹となる課題を解決するために,最新の画像診断装置図1在りし日の岩田和雄先生中国ハルビン医科大学の呂大光名誉教授夫妻とともに.(OCT)を駆使して視神経乳頭の形態変化に関する研究を続けておられ,その姿に感銘を受けました.次に先生は,多くの教室員を海外へ留学させるとともに,海外(とくに中国)から多くの留学生を受け入れました.とくに中国のハルビン医科大学をはじめとして,各地の医科大学より多くの留学生を受け入れました.このように先生は,海外との交流にも力をいれていらっしゃいました.先生の学問に対するひたむきな研究生活と研究業績などからしても,岩田先生は学問一筋の堅物で,あまり趣味はお持ちではないと思っておられる方も少なからずおられると思いますが,実は先生の趣味は多彩で専門的レベルでした.まずクラシック音楽の鑑賞のご趣味があり,ウィーンフィルのニューイヤーコンサートを聴くために,ウィーンまで奥様と何回も足を運ばれていらっしゃいました.さらに先生は絵画や書の造詣も深く,とくに陶磁器に関する知識と眼力は専門家といっても過言ではありません.岩田先生は,研究者,教育者そして臨床医としてきわめて多忙な生活を送りながら,同時にこのような素晴らしい趣味と教養を身に付けられたということに対して,私は感心するとともに心から尊敬の念を強くもった次第です.私がまだ入局したての頃に,毎年のように米国のARVO(TheAssociationforResearchinVisionandOphthalmology)の学会に連れて行っていただき,フロリダで美味しいワインとストーンクラブを御馳走になったことなど,まだ色々と先生の思い出はたくさんありますが,最後に先生が好まれた漢詩の一節を思い出して書かせていただきます.それは「年年歳歳花相似たり,歳歳年年人同じからず」です.これは自然の悠久さと,人間の命のはかなさを対峙させて人生の無常を詠嘆した句です.生あるものは必ず死ななければなりません.それは人間の定めです.人間にとって死別ほど悲しいものはありません.岩田先生とのお別れは大変悲しいです.大変寂しいです.岩田先生!先生のこれまでのご指導に対して心より感謝するとともに,先生の教えを忘れることなく,学問と研究・教育・診療を継続して参りたいと思います.これからもどうぞ私たちを見守ってください.岩田和雄先生の思い出黒澤明充(黒沢眼科医院)私は,岩田和雄先生が教授になられて3年目の1974年に新潟大学眼科に入局しました.当時は眼科検査が未発達でした.眼底の倒像検査は,大暗室に設置された裸電球を缶で覆い一方向へだけ光を放つようにした暗室燈と,小型の凹面鏡である河本式検眼鏡,+13Dのレンズを用いました.この検査は,光源が固定されているため検者の位置と姿勢が制限され,また光源が暗く,見える範囲が狭いので,眼底のスケッチには苦労しました.岩田先生は,原発開放隅角緑内障性視神経症および正常眼圧緑内障性視神経症の病因解明を究極の目標とされていました.私は岩田先生のご指導で,澤口昭一先生(前琉球大学教授)とともにカニクイザルを用いて隅角レーザー照射による実験緑内障を作製しました.このサル実験緑内障眼を用いて,網膜,視神経の変化と組織像,トリプシン消化法による視神経乳頭篩板の走査電顕的観察,軸索輸送障害の研究,視神経篩状板における細胞外マトリックスの変化など,多くの研究が行われました.岩田先生は,研究に対しては強い信念と激しい闘争心で臨まれますが,医局員に対しては,穏やかに接してくださいました.ご家庭では,同じ眼科医の奥様の玲子先生をいつも大切にされていました.高校の山岳部以来の図1ボストン美術館にて(1980年3月)左より岩田和雄先生,筆者,妻の久子,岩田玲子先生.憧れであったシャクナゲの花をご自宅に沢山植えられ,丹念に世話をされていました.美術や音楽の分野にも造詣が深く,常に芸術家に対する尊敬の念をお持ちでした.中国の陶磁器や日本の絵画などに精通されていて,美術館などでいろいろ教えていただきました.ご夫妻で音楽会にもよく足を運ばれていました.音楽ではとくにウィーンフォルクスオーパーの喜歌劇「こうもり」がお好きで,何度もご覧になったそうです.若い頃のドイツ留学によりドイツ語が堪能なため,上演中の歌手のアドリブも楽しんでおられました.2004年1月には,ご夫妻でウィーンの楽友協会のニューイヤーコンサートを聴きに行かれ,そのお姿がテレビで国際放送されたそうです.図2岩田式圧迫隅角鏡南旺光学株式会社メディカル販売事業部のカタログより転載.岩田先生とのもっとも楽しい思い出は,1980年3月の2週間の米国旅行です.医局の黒板に「同行者求む」と張り紙があり,すぐに応募しました.始めの1週間は岩田先生,妻の久子(当時新潟大学眼科在籍),私の3名で,後半には奥様の玲子先生とお嬢様の恵美子様が合流されました(図1).岩田先生は,第4回国際緑内障会議(オランド)で岩田式圧迫隅角鏡(図2)の講演をされました.女性用のストッキングで虹彩を作り,隅角鏡で角膜を圧迫すると虹彩根部が押し下げられ,隅角が現れてくる様子をアニメーションで示されました.隅角を覆ったり,露出したりする虹彩の動きがユーモラスなため,会場から大きな声があがりました.この旅行の最終日に,サンフランシスコで私どもの結婚1周年記念をワインとチーズで祝っていただきました.40年以上公私にわたりご指導いただいた岩田和雄先生を失い,悲しみでいっぱいです.先生のご冥福を心からお祈りいたします.☆☆☆