がんゲノム医療Cancer-RelatedGenomicMedicine鈴木茂伸*はじめに平成30年に閣議決定されたがん対策推進基本計画(第3期)には,「『ゲノム医療』とは,個人の『ゲノム情報』をはじめとした各種オミックス検査情報をもとにして,その人の体質や病状に適した『医療』を行うこと」と定義されている.個別化医療(personalizedmedicine),精密医療(precisionmedicine)などともよばれている.がん細胞の遺伝子の状態を調べるがんゲノムプロファイリング検査はこれまで研究として行われてきたが,2018年末にがん遺伝子パネルが薬事承認され,2019年6月に保険収載され,7月から実際の保険診療で行われるようになった.すなわち,これまで研究で行われてきたゲノム医療が,「ゲノム診療」として行われるようになった.現状では実際の眼科診療,眼腫瘍診療に直接役立つものではないが,現在の医学の一情報として知っておいたほうがよい内容と考える.本稿では,最初に分子標的治療,がん治療のコンパニオン診断などについて説明したあと,がんゲノム医療の本体であるがんゲノムプロファイリング検査について概説する.I分子標的治療分子標的薬とは,ある特定の分子を標的として,その機能を制御する薬剤のことである.従来の多くの薬剤も特定の分子を標的とすることが多いが,創薬の段階から分子レベルの標的を定めて開発されているものを分子標的薬とよぶ.がんにおいて,従来の抗がん剤は,DNAの合成を抑えたり細胞分裂を抑制したりすることにより細胞増殖を抑えていた.がん細胞は非がん細胞より細胞分裂が早く代謝も活発なため影響を受けやすく,これが治療効果として現れるが,一方で造血器や粘膜など細胞分裂の早い非がん組織も影響を受け,これが副作用として現れる.がん細胞だけに作用する薬剤があれば,細胞特異的な治療効果が期待され,副作用も回避できる.がんは遺伝子病ともいわれる.多細胞生物はもともと他の細胞とのバランスで生体を維持している.特定の細胞が増えすぎれば個体として成り立たないため,細胞レベル,分子レベルで種々の抑制メカニズムが働き,恒常性が保たれている.ある細胞で遺伝子変異が起こると,多くの場合はその細胞自体を維持することができずにアポトーシスを起こし排除されるが,ごく一部の細胞は生き残る.これらの細胞は遺伝子変異により増殖能が高かったり,種々の制御機構が働かないなどにより勝手に増殖する.最終的に体の免疫機構でも制御しきれず増大してきたものが「がん」として認識されている.実際には単一遺伝子変異によるがんはごくまれで,いろいろな遺伝子変異が積み重なっていることが多い.複数ある遺伝子変異のなかで,細胞増殖の「鍵」となる遺伝子変異に対して特異的に働く薬があれば,がん細胞の増殖を抑えることができ,一方で正常細胞には作用しないため副作用が回避できる.この考えに基づき種々の分子標的薬が開発されてきた.歴史的には1983年に*ShigenobuSuzuki:国立がん研究センター中央病院眼腫瘍科〔別刷請求先〕鈴木茂伸:〒104-0045東京都中央区築地5-1-1国立がん研究センター中央病院眼腫瘍科0910-1810/19/\100/頁/JCOPY(65)1407正常な状態BRAF遺伝子変異増殖因子受容体細胞膜RASRASBRAF変異BRAFBRAF阻害薬MEKMEKMEK阻害薬ERKERK細胞の増殖,生存異常増殖図1細胞内伝達経路の例:MAPキナーゼ経路通常は種々の制御機構が働くが,BRAF遺伝子変異があるとこの経路が活性化され,異常増殖を生じる.変異CBRAF蛋白やCMEK蛋白を阻害する薬剤を投与すると,細胞増殖を制御できる.はない.これはすでに標準治療に組み込まれていて,診療報酬において肺がんにおけるCEGFR遺伝子検査や悪性黒色腫におけるCBRAF遺伝子検査などが悪性腫瘍遺伝子検査として認められている.このような背景から,これまでは肺がん,乳がんなど発生臓器により分類されていたが,遺伝子変異に基づく分類も使われるようになってきた(たとえばCALK遺伝子変異をもつ腫瘍をALKomaとよぶなど).コンパニオン診断という言葉が使われるようになっている.これは医薬品の効果や副作用を投薬前に予測するために行われる臨床検査であり,薬剤と診断方法が組み合わせになって保険で認められているため,このようによばれている.一つは副作用予測であり,イリノテカンという抗がん剤はCUGT1A1遺伝子変異と好中球減少の副作用の関連があるため,投薬前にCUGT1A1遺伝子診断キットによる検査が必須とされている.もう一つががんの遺伝子変異であり,特定の遺伝子変異症例に対し特定の薬剤を投与することができる.眼科と関係のある例としては,悪性黒色腫でCBRAF遺伝子のコドンC600の変異(V600EやCV600K)がある場合にはベムラフェニブを使うことができる.ただし,保険で認められているのは,治験の段階の検査方法と同じ検査方法で同定されたものに限定されているため,コンパニオン診断薬として承認された方法以外で同定された遺伝子変異結果に基づいて治療薬を使うことは認められていない.この場合には改めて対応しているコンパニオン診断を行う必要がある(次に述べるがん遺伝子パネル検査を除く).CIIIがんゲノム医療現在のがんゲノム医療の本体は,がんゲノムプロファイリング検査・がん遺伝子パネル検査である.上述のがん遺伝子検査は一つの遺伝子に注目して変異を検出しているため,これが陰性の場合には改めて別の遺伝子検査を行う必要があり,時間,費用,労力が倍増する.がんゲノムプロファイリング検査は,次世代シークエンサーを用いて複数のがん関連遺伝子を一度に調べる検査法である.がん遺伝子パネル検査はがんゲノムプロファイリング検査の一つで,あらかじめがんに関連する数十.数百の遺伝子を選んだパネルを用いて遺伝子変異を調べる検査である.2019年C7月の時点で,OncoGu-ideTMNCCオンコパネルシステム(NCCオンコパネル)と,FoundationOneCDxがんゲノムプロファイル(F1CDx)のC2種類が保険診療で認められている.C1.検査の目的第一には,がん細胞のドライバー遺伝子(用語解説参照)変異を検出することにより,がん細胞特異的な薬物治療を選択すること(図2),第二には腫瘍変異負荷(tumorCmutationalburden:TMB)を調べることで免疫チェックポイント阻害薬による治療効果を予測することである.また,NCCオンコパネルでは付随的に遺伝性腫瘍症候群を発見することが可能である.後二者については8,9で説明する.C2.検査可能な遺伝子NCCオンコパネルはがん関連のC114遺伝子変異とC12融合遺伝子,また末梢血を同時に検査するため遺伝性腫瘍症候群の原因遺伝子も検出される(図3).F1CDxは324遺伝子変異を検索でき,一部の変異はコンパニオン診断として承認されている.どちらを用いた場合でも,病的変異が検出されるのは約半数であり,おもな分子標的治療対象となる遺伝子はどちらの検査でもカバーされているため,対象遺伝子が多いほど有用という結果にはつながらない.C3.検査可能な施設研究として行う場合には制限はない.保険で行う場合には,適正な病理検体の提出,エキスパートパネル(用語解説参照)の設置,遺伝性腫瘍の対応など種々の要件があるため,2019年C7月の時点ではがんゲノム医療中核拠点病院C11施設とがんゲノム医療連携病院C156施設でのみ検査を受けることができる.C4.検査対象保険で行う場合,①標準治療がない固形がん,②局所進行もしくは転移があり標準治療が終了した(終了見込みを含む)固形がん,③検査後に化学療法の適応となる可能性が高いと主治医が判断した場合,となっている.(67)あたらしい眼科Vol.36,No.11,2019C1409図2がんゲノム医療の概念図次世代シークエンサーを用いて,遺伝子異常を検出し,これに特異的に働く薬剤を選択するという個別化医療である.ABL1CRKLIDH2NF1RAC2ALKACTN4CREBBPIGF1RNFE2L2RAD51CAKT2AKT1CTNNBIGF2NOTCH1RAF1BRAFAKT2CUL3IL7RNOTCH2RB1ERBB4AKT3DDR2JAK1NOTCH3RETFGFR2ALKEGFRJAK2NRASRHOAFGFR3APCENO1JAK3NRG1ROS1NRG1ARAFEP300KDM6A/UTXNTRK1SETBP1NTRK1ARID1AERBB2/HER2KEAP1NTRK2SETD2NTRK2ARID2ERBB3KITNTRK3SMAD4PDGFRAATMERBB4KRASNT5C2SMARCA4RETAXIN1ESR1/ERMAP2K1/MEK1PALB2SMARCB1ROS1AXLEZH2MAP2K2/MEK2PBRM1SMOBAP1FBXW7MAP2K4PDGFRASTAT3BARD1FGFR1MAP3K1PDGFRBSTK11/LKB1BCL2L11FGFR2MAP3K4PIK3CATP53BRAFFGFR3MDM2PIK3R1TSC1BRCA1FGFR4MDM4PIK3R2VHLBRCA2FLT3METPOLD1CCND1GNA11MLH1POLECD274/PD-L1GNAQMTORPRKCICDK4GNASMSH2PTCH1CDKN2AHRASMYCPTENCHEK2IDH1MYCNRAC1図3NCCオンコパネルで検出される遺伝子日本人のがんに多くみられるC114遺伝子変異とC12融合遺伝子を検出できる.(国立がん研究センターホームページ:https://www.ncc.go.jp/jp/information/pr_release/2019/0529/index.html)図4がん遺伝子パネル検査の流れと臨床情報を収集してがんゲノム情報レポジトリーを構築することが任務である.せっかく保険で検査費用を負担するのであれば,日本人のがんゲノム情報を集約し,政策決定に役立てたり,データを大学や企業に提供することで治療開発の促進をめざすことに活用するという方針である.C-CATへのデータ提出に関しては,担当医が検査説明を行う際に提出に関する同意を確認することになっている.非同意であっても検査は可能であるが,現在可能な治験や臨床試験情報などの付加情報を得ることができなくなる.C7.検査結果と限界NCCオンコパネルの前段階で行われた臨床試験において,なんらかの遺伝子変異が検出されたものはC8割を超えるが,エビデンスレベルの保障される変異はC5割程度にとどまり,遺伝子異常に対応した治療薬を投与できたのはC13%であった2).実臨床においても検査したうちのC10.20%程度しか治療には結びつかないと推定されている.遺伝子変異が見つかった場合,これを過去のデータベースを参照にして,病的バリアント,遺伝子多型,病的意義不明(variantsCofCunknownsigni.cance:VUS)の判定が行われる.この基準はデータベースの蓄積とともに変化する場合があるため,解釈結果の変更があれば追加報告される体制が考えられている.病理検体の質の制約もある.検査に提出するのはホルマリン固定標本であるが,あまり古いホルマリン固定標本からは質の高いCDNAを抽出できない.また,腫瘍細胞比率の低い検体は検査できないことがある.各パネルの基準と,各施設の病理医の判断が重要である.C8.腫瘍遺伝子変異負荷腫瘍遺伝子変異負荷(tumorCmutationalburden:TMB)とはゲノムのC1CMbあたりの変異塩基数として示される数値で,遺伝子変異の蓄積量を表す.TMBの高い腫瘍は免疫チェックポイント阻害薬が奏効しやすいことが示されているため3),効果予測因子として用いることができる.NCCオンコパネルではこの結果も返却される.C9.遺伝性腫瘍の検出遺伝子には優性(顕性)遺伝子と劣性(潜性)遺伝子がある.がん抑制遺伝子の多くは劣性遺伝子,すなわちC1細胞内にあるC2個の対立遺伝子座の両方に変異が生じている.体細胞には変異がなく腫瘍の細胞だけにC2段階の変異を生じた場合を体細胞変異とよぶ.一方,すべての体細胞にC1段階の変異が備わっている場合を生殖細胞系列変異とよび,複数の細胞でC2段階目の変異を生じることから多重がんを生じることがある.遺伝性腫瘍症候群を呈するおもなものとしては,網膜芽細胞腫(RB1遺伝子),家族性乳がん卵巣がん症候群(BRCA1,BRCA2遺伝子),Lynch症候群(MLH1,MSH2遺伝子など),Li-Flaumeni症候群(TP53遺伝子)などがある.腫瘍検体で遺伝子変異が検出された場合,たとえば乳がん患者でCBRCA1遺伝子変異が検出された場合,これがドライバー遺伝子変異と推定されるが,多くの場合は体細胞変異であるものの,一部生殖細胞系列変異であることがわってしまうことがある.この場合,患者本人は現在のがんの治療に専念すべきであるが,多重がんの可能性があり,さらに血縁者にも発病リスクがあるという不安を増やすことになる.検査目的であるがんの原因遺伝子変異の結果は患者本人に伝えるべきであるが,遺伝性腫瘍の可能性に関して開示するか否か,この点は検査開始時に患者本人の同意を得ておくことが望ましい.また,不幸にして結果開示前に本人が亡くなってしまった場合,遺伝性腫瘍の情報を血縁者に伝えるか否か,この点も事前説明の際に同意を得るとともに,説明時に家族が同席し情報共有をしておくことが望ましい.C10.がん遺伝子パネル検査とコンパニオン診断F1CDxは一部の腫瘍に対してコンパニオン診断として用いることが認められている.コンパニオン診断として行う場合には,保険請求は遺伝子パネル検査としてではなく悪性腫瘍組織検査の悪性腫瘍遺伝子検査として請求することになる.コンパニオン診断として行う場合,目的とする遺伝子以外の遺伝子情報に関しては治療方針1412あたらしい眼科Vol.36,No.11,2019(70)図5バスケット試験肺がん,大腸がんなど異なるがん種であっても,共通の一つの遺伝子変異がある腫瘍をバスケットに入れるように集めて一つの治験を行うという治験の一形態.臓器ごとにプロトコルを作る必要がなく,治験対象者を集めやすいため治験の効率化とスピード促進が期待される.図6アンブレラ試験肺がんなどC1種類のがんを対象として,遺伝子変異の状態により複数の治験薬を使い分ける治験の一形態.一つのがん種に対して広げた傘のように複数の治療薬がある.■用語解説■クラスエフェクト:あるカテゴリーに分類される薬に共通した薬理作用のこと.たとえばCBRAF阻害薬に分類される薬剤はどれでもCBRAF変異を有する悪性黒色腫に有効である.副作用の観点でも同様で,BRAF阻害薬やCMEK阻害薬を使用すると,ぶどう膜炎や網膜色素上皮.離を生じる.ドライバー遺伝子:がんの発生や進展において直接的に重要な役割を果たす遺伝子のこと.がんの発生過程でゲノム変異が起こりやすい状態となるため,ドライバー遺伝子変異以外にがんの発生には無関係な遺伝子変異も多数生じている(背景変異,パッセンジャー遺伝子とよばれる).ドライバー遺伝子を標的とした分子標的薬が開発されている.エキスパートパネル:がんゲノム医療中核病院や拠点病院に設置される専門家チームで,担当医,病理医,遺伝医療の専門家,がんゲノムの専門家,バイオインフォマティクスの専門家など種々の専門家で構成される.遺伝子の検査結果をもとに,個々の患者に適した治療法を検討する.