———————————————————————-Page1あたらしい眼科Vol.25,No.5,20086810910-1810/08/\100/頁/JCLSこの4月から後期高齢者医療制度が導入され,医療の現場ではかなりの混乱が生じています.この制度の是非はともかくとして,最近は医師不足,医療崩壊などの言葉がマスコミで取り上げられています.医療訴訟の多い産婦人科医,小児科医,外科医などへの希望者が激減し,また,リスクが高く過酷な勤務を強いられる大病院の勤務医が小規模の病院に,さらに開業医にシフトしてきており,それが病院の勤務医不足に拍車を掛けています.自分の住んでいる地域には産科がなく,出産時に病院をたらい回しにされたという妊婦のことが報道されました.どうしてこんなことが起こってきたのでしょうか.現在,虎の門病院泌尿器科部長を務めておられる小松秀樹氏は,その原因の一つとして,日本人を律してきた考え方の土台が崩れてきており,死生感が失われて,生きるための覚悟がなくなり,不安が心を支配しているからだと述べています.医療とは不確実なものですが,患者は現代医学に過剰な期待をもっています.すべての病気は発見され,適切な治療を受ければ治ると思っていますし,医療はリスクを伴ってはいけないと思っています.一方,医師の方は医学はまだ発展途上であり,医学には限界があることを知っています.この差が医療訴訟をひき起こし,安心・安全神話に覆われている日本社会では,メディアが煽り,司法が裏打ちすることで,理不尽な医療への攻撃が頻発しています.このような事態が進んでいくと,使命感を抱く医師や看護師が現場を離れて,結果的に困るのは医療を必要とする患者とその家族であると,小松氏は述べています.医療が置かれている危機的状況の理解をうながし,医療の崩壊を防ぐ一助となることを願って著した本書は,七つの章からなります.第一章では,日本人の死生観が変容して死というものを受容できなくなっており,それが医療をめぐる争いごとに影響を与えていること,またさまざまな症例を呈示して,医療が不確実であることを示しています.このなかで,医療行為の結果は確定せず,確率的に分散しますが,メディアのみならず裁判官までをも,原因と結果は一対一の関係にあり,結果から原因を特定できるというドグマが支配している,ということが書かれており,これにはあらためて驚いてしまいました.第二章では,医療は無謬ではなく,間違いは起こるものであることが認知されてきたこと,また,インフォームド・コンセントの重要性が書かれています.第三章では,医療と司法の間にあるさまざまな問題点にスポットをあてています.日本における医療訴訟は年間1,000例程度と非常に少なく,年間で医師200人に1人ぐらいしか訴訟を受けていないとのことです.アメリカのニューヨーク州では年間で医師17人に1人が訴訟を受けているとのことですから,かなり日本における医療訴訟は少ないと言えるでしょう.しかし,医療訴訟は日本においても確実に増えてきていることは間違いありません.私自身も医療訴訟の経験がありますが,解決には何年もかかり,その間,不快感と不安は継続します.私の場合は比較的満足の得られる形で解決しましたが,納得の得られない処分を受けたとすれば,医師の士気は削がれ,医療の質は低下するでしょう.第四章では,医療倫理の確立と医師の行動規範の成文化について,著者が虎の門病院で取り組んだ内容について書かれています.また,医師が患者に説明し,同意を得なければればならない診療行為が決められてあり,説明文書にて説明したうえで同意文書を書いて貰うわけですが,もし,納得がいかない場合には,セカンド・オピ(105)■5月の推薦図書■医療の限界小松秀樹著(新潮新書,新潮社)シリーズ─81◆小玉裕司小玉眼科医院———————————————————————-Page2682あたらしい眼科Vol.25,No.5,2008ニオンを聞くことも勧めるとのことです.第五章では,医療における教育,評価,人事について,大学院,医局制度,新臨床研修制度などに触れながら問題点を指摘しています.著者は,若い医師の要求の最も大きいものは,自分たちの医師としての能力を向上させることであり,意欲のある若い医師を,医局や病院の垣根をなくして交流させ,大きく育てようとする姿勢を示すことが,若い医師を確保する最も重要なポイントだと述べています.眼科は医学部卒業後,希望者が多い診療科の一つですが,それでも周辺の病院から常勤医の撤退が相次いで聞こえてきます.医師不足の原因は根深いところにあり,すぐに解決できる問題ではないように思えてしまいます.第六章では,医療費について言及されています.2004年の先進国の医療費の対GDP比は,アメリカが15.3%,ドイツが10.9%,フランスが10.5%,カナダが9.9%,イギリスが8.3%なのに対して,日本は8.0%であり先進7カ国では最下位になったとのことです.特に,入院診療に費用がかけられていないようです.2006年4月の診療報酬改定では,マイナス3.16%という史上最大規模の医療費削減が実施されました.また,政府は医療費削減を目指す観点から医師数を規制してきました.医療費削減によって過酷な労働負担を強いられる病院勤務医は現場から立ち去り始めてしまい,医師数の規制と相まって医師不足に拍車を掛けたのです.2002年,日本の医師数は人口10万対206名であるのに比較して,OECD加盟国は平均で人口10万人に対して290名であり,大半の先進国で,日本よりはるかに医師数は多いということができます.イギリスではサッチャー政権による長年の医療費抑制政策で,医療従事者の士気が崩壊したとのことです.その結果,多くの医師がオーストラリアやカナダなどの海外へ移住したようです.その後のブレア政権は医療費を増やして現状を打開しようとしたのですが,いったん崩壊した医師の士気はすぐには元に戻りません.日本もイギリスの失敗を見習って医療費抑制政策を見直さねばならない時機にきていると思います.日本の医療は,現在「公共財」として運営されていますが,市場原理にゆだねられるべき「通常財」として運営していくかの岐路に立たされているようです.アメリカは通常財として医療が運営されています.医療は平等ではなく,金持ちしか高度な医療を受けることができません.中間からやや下の階層では医療保険を購入できず,その結果,アメリカの乳幼児死亡率は貧しいキューバよりも高くなっているとのことです.医療保険も値段によってサービスが異なり,保険会社による支払いも上限があり,本格的な病気だと多額の自己負担が発生します.貧困層3,700万人はメディケイドによって医療費が支給されますが,メディケイドは相対的に医療費を安く設定しているため,メディケイドの患者の診療を拒否する医師が50%にも達しているということです.第七章では,医療崩壊を防ぐにはどのようにしたらよいかについて考察されています.医療崩壊を防ぐには医療事故を防止するだけでは不十分であり,医療事故が起きることを前提として,公平な処理システムを医療制度に組み込むことが必要であると述べられています.眼科医にとっても医療訴訟を恐れていたのでは,最新の医療は提供できなくなり,医療の質の低下を招きます.医療訴訟を防ぐには,インフォームド・コンセントをしっかり取ることは勿論,大変重要なことですが,医療の限界というものを,患者に理解して貰うことも大切であることがよくわかりました.著者は「国民的な議論を通して一致点を明確にし,その上で具体的な改革案を考えることは,実行可能な現実的な案だと思います.現在の医療危機の原因が,考え方の齟齬にあるとすれば,解決のために,国民的議論は避けて通れないと私は確信しています」と締めくくっています.☆☆☆(106)